画期的判決から極めて悪質な控訴審判決へ
〜細見訴訟大阪高裁の不当判決〜

支援ネット代表世話人 高久隆範

 はじめに

 「お国相手に万に一つの可能性もありませんよ。」という弁護士さんのご説明にもかかわらず、患者さんに背中を押されながら、細見先生は保険医取消処分の取り消しを求めて闘いに立ち上がった。(2009年11月で5年である。)周囲には頼れる医療団体は皆無、公然と支援する医師もほとんど存在しない中での闘いが始まった。大方の予想に反して、昨年の神戸地裁判決で取消処分に裁量権の逸脱濫用があり「違法」と断罪された。国がこの分野ではじめて負けた。

 そして、去る2009年(平成21年)9月9日大阪高裁は、画期的な一審判決を取り消す判決を下した。あれだけ詳細に事実認定を一審で行った結果を、そう簡単には覆せないだろうと思っていた。上級審にゆけば国側に有利な判決を書くという一般論を知らなかったわけではない。官僚司法を担う司法官僚が集まる大阪高裁であれ、「法律家の良識」に一縷の望みを託していた細見先生及び支援する者の思いが踏みにじられた。

 なぜこうなるのか。一審判決文と高裁判決文を参照した主な結果をここに明らかにしておきたい。

 1.一審判決の枠組みを踏襲しているが

 なぜ、「違法な取消処分」が「適法」という正反対の結果になったのか。一審ではなかった重大な事実が明らかになり、事実認定が変わり、裁判所の判断が大きく変わったのか。

 新たな争点は1つもない。事実認定を変えた部分は検査に係わるところ一点だけである。にもかかわらず「個別の悪質性の度合い」という尺度で計った判断をほぼ全面的に変えている。神戸地裁判決では、「悪質性は相当低い、非難に値するほど悪質ではない」という判断を、大阪高裁は「悪質性は高い、悪質性は低いものとはいえない、悪質なもの」に変更している。

 では、なぜ一審で「悪ではない。」と判断されたことが、高裁判決で「悪である」と正反対の断定がされたのか。判決文を何度読んでも合理的な説明はない。悪は悪なりという同義反復としか思えない。ここまで書き換えるのだ。

 

 2.非対面診察を無診察処方と歪曲

 「非対面診察での処方」を「無診察処方」とねじまげて糾弾している。「診察」をしたか否かは、形式的に患者と対面したか否かが基準ではない。医学的に患者の病状を判断するための情報を得たか否かが基準であって、医学的な基準を満たす限り非対面の診察も保険診療上の「診察」に含まれると解するべきである。

 加えて、医療現場でそのような実態があることや、そのような見解・判決が少なくないことを認めていながら「悪」と断定している。医療団体の一部に散見される「非対面診察処方=悪」という主張と重なるところがあり、重大な判断と言える。

 現実の医療にあてはめるとこうなる。この判決によれば、厚生労働省が認めているにもかかわらず「介護者が薬をもらいにきても窓口で渡してはいけない。」、「新型インフルエンザと電話で判断しても薬を処方してはいけない。」ということになる。それで健康が守れるのか。

 細見先生が窓口でのスタッフによる患者の聴取をもとに病状判断をしている事実を認めながら、このような判決文を書くのである。病状を把握していない患者に処方した事実はないのである。国民の健康よりも規則の教条主義的解釈しか司法には関心がないのか。

 

 3.国民の健康よりも規則偏重の適用外処方

 保険適用ではない薬の処方=薬価未収載等の処方に関しては、国民の健康への配慮など微塵もない。「医学的効能が優れていようが、安全性が高かろうが振替請求だから悪質だ。」となる。

 これも実はおかしい。医学の進歩により効能・安全性の優れた新薬が開発されることは、国民の健康にとって好ましいことである。療養担当規則でも「・・医学を堅持し・・」という文言がある。良い薬が開発され市場に出ているということは、多くの医療機関で使われ効能を発揮しているということである。そのようなものを保険に収載していない国側こそ「きわめて悪質」ではないか。

 まして、細見先生は保険収載薬との差額を自分で負担していたのであり、悪意がないことは誰の目にも明らかである。 大阪高裁は、国民の健康を侵害する重大な判断を重ねた。

 

 4.排撃された専門家の意見書

 眼科専門医であり、かつて日本眼科医会社保担当副会長として仕事をされた向井先生が意見書を提出した。診療実態と保険請求という運用に関する専門家としての意見である。しかし、大阪高裁はかたくなに「点数表の解釈に明記」されていることをもって向井意見書を退けている。

 また、取消処分の理由に関しては、「・・監査要綱の定める処分基準と処分との関係についてまで明らかにすることが要請されると解することはできず・・・」として行政手続法を形骸化する結論を導いている。行政手続法と細見訴訟との関係法理論に関して東京大学法科大学院教授宇賀克也先生による意見書が提出された。しかし、裁判所は、原告側弁護団が準備書面で言及していないためか一切の判断を行っていない。過日の「暮石訴訟控訴審判決」では、準備書面で言及したにもかかわらず黙殺している。

 法廷に持ち込まれた行政手続法の論戦を回避するという上級審の態度は、法律家として許し難い姿勢である。

 

 5.はびこる御都合主義と非常識

 支離滅裂な御都合主義も登場する。なんの検証もなくあたかも事実かのごとく平気で持論を展開する。

 「不当利得」というために、取消処分に当たっては金額の多寡ではないかのように言っておきながら、後段では監査の結果明らかになった不正・不当金額は氷山の一角でさらに多くの金額があるだろうと、堂々と「邪推」まで書き込んでいる。なんとしても原告を極悪人に仕立て上げたい裁判官の面目躍如である。

 さらに、個別指導の後に監査があり得ることは保険医の常識であると断定する。国はそう考えているだろうが保険医の常識とまでいうのは非常識だ。傲慢不遜な態度というものは言葉づかいにも出てしまうものである。

 

 6.内容証明付きのカルテ

 カルテ記載不備に関しては、国側の主張通り切り張りをしている。一字一句変わりがない部分を読むとぞっとしてくる。

 一審より踏み込んでカルテは「診療内容を証明する唯一といってよい記録」と認定している。それなら、記載されていないことは、どんな医療行為をやっていても認められないのか。証明できないから、存在しないと言われても仕方がないのか。

 臨床医は、内容証明のためにカルテを書いているのではない。カルテ記載について医師法24条は「医師は診察したときは、遅滞なく診療に関する事項を診療録に記載しなければならない」と規定し、医師法施行規則23条では、(1)診療を受けた者の住所、氏名、性別及び年齢、(2)病名及び主要症状、(3)治療方法(処方及び処置)、(4)診療の年月日の4項目の記載を求めているにすぎない。

 診療録の医療上の位置づけまで歪める、がさつな判断をした。

 

 司法の壁を乗り越えて

 細見訴訟一審判決以後、福島県での歯科保険医の勝訴にみられるように、裁判所は、「取消処分に係わる詳細な事実認定を行い、裁判所として逐一判断をして処分に裁量権の逸脱、濫用がないか審査をする」ようになった。

 今回の控訴審判決は、事実認定の大部分は、画期的な一審判決の枠組みに負いながら、一部「重過失」への変更と「悪質性」に関する判断をほぼ全面的に転換して細見先生を極悪人に仕立て上げた。画期的な一審判決の成果を根こそぎ破壊しようというもので、「その悪質性は極めて高い」といわざるを得ない判決である。

 地元に支援する医療団体、医師がほとんどいない中で、患者会のみなさんと闘ってきた細見先生の5年にわたる闘いが敗訴になったことは、無念であり、原告、患者会のみなさんの気持ちを思うと胸がつぶれる思いである。支援ネットと細見先生の出合いは昨年の5月であるが、原告の先生の思いをわが思いとして支援を行ってきた。

 医科歯科問わず全国でいくつかの処分取り消し訴訟が闘われている。今後の訴訟の行方を即断することはできないが、今回の細見訴訟控訴審判決によって処分取り消し訴訟に対して国だけでなく大きな司法の壁が厳然と存在することが明らかとなった。

 細見先生と患者会のみなさんが孤立無援の中で5年にわたって国を相手に偉大な闘いを続けてきた、その不屈の精神を根こそぎ引き継いで司法の壁を乗り越えてゆくことを決意しているところである。

 

 

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