11月4日付毎日新聞は1面トップで「元厚生官僚が不正指南 診療報酬資料改ざん」と題する記事を掲載した。同記事によると元官僚は医療指導監査官などを歴任。退職後の2000年にコンサルト会社を設立し、歯科医師に対し個別指導における「行政対応の助言」を行うとともに、東京や大阪で定期的にセミナーを開催しているという。
個別指導への対応について「指南」を受けた大阪の歯科医師の例では、偽装した書類をコーヒーに浸して古びたように改ざん、レントゲン写真は色鉛筆で修正、技工所に納品書の書き換えを依頼、訪問診療の辻褄合わせのための名義借りなど、様々な偽装工作をするよう「助言」を行っていたというものである。
指導医療官については、1981年(S56年)4月1日付「指導医療官の設置について」(保発第19号)によって、従来の「医療専門官」の職名を改めるとともに、その職務を①地方厚生(支)局の事務のうち医学上の専門的事項に関すること、②その他保険診療に関する事項について地方厚生(支)局長が必要と認めること、と規定した。
その後、1993年(H5年)10月11日に個別指導を苦に富山県の若い医師が自殺に追い込まれた事件をはじめ、京都歯科技官贈収賄事件(1995年7月18日)などを背景として現在の指導大綱・監査要綱が作成されたことに伴い、1996年(H8年)3月15日付で「指導医療官の運営について」(保発第28号)とする保険局長通知が発出された。
1、指導監査業務の実施 保険診療の適正な運営を図るため、保険医療機関等及び保険医等に対し、医学上の専門的事項に関する指導・監査を行うこと。
2、保険診療に関する指導、助言 保険診療の適正な運営を図るため、保険者、審査支払機関並びに保険医療機関等及び保険医等に対する診療報酬の疑義解釈、点数表解釈等の指導、助言並びに保険医療機関等及び保険医等並びに医療関係団体等に対する保険診療に関する指導、助言を行うこと。
3、その他 保険診療に関する事項について地方厚生(支)局長が必要と認める事務を行うこと。また、医学上の専門事項に関する知識を高めるため、地方厚生(支)局長の命を受け、医学研修等に適宜出席すること。
同通知では、指導医療官の職務をさらに具体的に示すとともに、指導医療官の医学的知識を高めるための医学研修等に出席することを求めている。
なお1996年(H8年)は、官僚トップの岡光序治事務次官(当時)が特養ホームの設置にからむ補助金交付などの便宜を図った見返りとして現金6,000万円、ゴルフ会員権(1,600万円相当)、乗用車の無償提供などを受けたとして収賄容疑で逮捕され、懲役2年、追徴金6,369万円の実刑判決を受けるという前代未聞の不祥事が発覚した年でもあった。
指導医療官はその職責から、国家公務員倫理法(H11年法律第129号)に基づく国家公務員倫理規定の遵守はもとより、高度な専門性が要求されることはいうまでもない。
この点、「指導医療官の確保について」(H5年7月5日保険発第86号)においては、「保険診療に関する指導監査業務の厳正かつ適正な運用のためには、指導医療官の資質の確保、向上が重要である」として、指導医療官に対して十分な研修を行うとしている。
さらに、「指導医療官マニュアル」(H7年版)においても、「適正な保険診療の運営は、多様な職種・立場における相互理解と協力なしには達成し得ないものである。これらに対処する行政庁による公正なる調整機能を担う者として指導医療官に期待される役割は高まっている」と高度な見識を求めているが、指導医療官の立場を利用した収賄など、マスコミを賑わせた事件が後を絶たない。
今回の毎日新聞の報道は収賄容疑を構成するものではないが、「指導医療官」の立場を利用した悪質な行為であるという点で共通している。
1984年(S59年)11月19日、指導医療官が収賄容疑で逮捕・起訴されたことを受け、社会保険庁長官・厚生省保険局長連名の「社会保険医療事務担当職員の綱紀粛正について」(庁発第21号・保発第116号)と題する通知が発出され、京都歯科技官贈収賄事件(下記表・事例1)直後の1995年(H7年)8月24日にも同様の通知(庁発第3号・保発第76号)が発出されたが、綱紀粛正には至らなかった。
2010年の贈収賄事件(事例4)を受け、厚労省は副大臣をトップとする「保険医療機関等に対する指導・監査の検証及び再発防止に関する検討チーム」を立ち上げ、同年12月17日に「中間とりまとめ」を公表した。
「中間とりまとめ」では再発防止策として、①国家公務員倫理の徹底やメールのやりとりの写しを上司にも送る等のコンプライアンス及び情報の共有、②指導監査業務に係る本省と地方支分部局の役割分担や担当職員の育成に重点を置いた人事ローテーションなど組織・人事の見直し、③大臣官房監察室の設置など内部監察体制等の構築の他、④保険医療機関等に対する指導監査業務の見直し等の項目を設け、それぞれ対策を列挙している。
指導監査業務見直しの内容は、①各種マニュアル類の整備、指導医療官の確保、職員に対する研修の充実強化を進め、事務処理の標準化・統一化等を行う。また、指導監査における審査支払機関との連携を強化し、審査の過程で得られた情報を地方厚生(支)局及び本省で集約し活用する仕組みの構築。②指導大綱・監査要綱等の体系に基づき行われている指導監査業務について、不正行為の発生を防止できるものになっているかという観点から確認を行う。また、指導対象の選定方法等その在り方について見直しを行う、というものである。
同「中間とりまとめ」の結論部分では、「今回の事案は、一職員のモラルを欠いた行為が省全体の信頼を損ねたという点で誠に残念なものではあるが、組織的な違法行為が行われた訳ではない」と、個人のモラルの問題に矮小化する意図も窺える。
事案 |
逮捕年月 |
事案の概要 |
判決 |
1 |
1995年6月 (H7年) |
京都の指導医療官が、対象医療機関の選定など指導に手心を加えるように歯科医師会から420万円の賄賂を受け取ったとして収賄容疑で逮捕 | 懲役2年6カ月、執行猶予3年、追徴金420万円 |
2 |
2007年5月 (H19年) |
栃木社会保険事務局の指導医療官が、指導情報を提供するなどの見返りとして同窓会から10年近くにわたり2,000万円以上の資金提供を受けたとして収賄容疑で逮捕 | 懲役2年、執行猶予3年、追徴金230万円 |
3 |
2008年11月 (H20年) |
1987年から1989年まで厚生省(当時)の医療指導監査官の経歴を持つ医師が、診療報酬を二重請求していたことなど詐欺容疑で逮捕 | 懲役1年8カ月の実刑判決 |
4 |
2010年9月 (H22年) |
2004年から2008年まで医療指導監査室の特別医療指導監査官を歴任した現職の厚労省課長補佐が、特定のコンタクトレンズ販売会社が経営する眼科診療所が指導・監査から免れるよう便宜を図る見返りに現金1,175万円を受け取ったとして収賄容疑で逮捕 | 懲役2年、追徴金1,175万円の実刑判決 |
保険医療機関・保険医の取消処分の取消を求めた訴訟において、高裁段階で初めて勝訴した「溝部訴訟」の代理人を務めた石川善一弁護士は、現在の健康保険法のもとでの構造的な病理現象として、「保険医の自死」「保険医・指導医療官の贈収賄」「保険医等に対する違法処分」という三つの不幸が、行政庁の「広範な裁量権」(処分の基準もなく、取り消すか否かの判断が現場の担当官に委ねられていることなど)を背景として広がっていると指摘している。
一連の収賄事件も証拠によって犯罪が証明されたごく一部のものに過ぎず、贈収賄とはいえないまでも、不明朗な癒着が数多く存在するであろうことは想像に難くない。
被指導者は、個別指導の対象医療機関に選定された理由も明らかにされず出頭を求められ、指導後の措置が「概ね妥当」となるのか「再指導」「要監査」となるのか、指導結果通知書が来るまで不安な日々が続くことになる。監査においては「懲役刑」(=戒告、注意)なのか「死刑」(=取消処分)を宣告されるのか、先の見えない恐怖心に駆られ精神的に大きなダメージを受けることになり、保険医の自死や贈収賄事件の要因となる。いずれも指導・監査担当職員の「広範な裁量」によって結果が恣意的に左右されるという現在の健保法令の構造的問題といえるが、「中間とりまとめ」にはそうした視点からの検証は全くなされていない。
厚労省が指導監査業務にまつわる一連の不祥事を防止する意思があるなら、諸問題の背景にある健保法令の構造そのものにメスを入れなければ、同様の事件が繰り返される蓋然性を排除することはできない。
行政庁として不名誉な事件の再発を防止するための第一歩を踏み出す処方せんは、保険医の適正な手続的処遇を受ける権利を保障するために、日本弁護士連合会が公表した「健康保険等に基づく指導・監査制度の改善に関する意見書」(2014年8月22日)や、法律の専門家によって構成された「指導・監査・処分改善のための健康保険法改正研究会」がまとめた「健康保険法改正素案」(2016年8月21日)などに示されており、厚労省はこれらの貴重な調査・研究の到達点について真摯に学ぶべきである。
指導 監査をめぐる動き
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